babasky's blog

ばばあの空

伯母のこと

父方は五人きょうだいで、一人だけ伯母が居た。
生涯独身だった。
若い頃、結核を患い死にかけた。
肺が片方しかなかった。
そのせいか、生涯職に就くこともなく、父の実家で家事手伝いと祖母の小商売の手伝いをしていた。
少し商才があったのと人柄の良さで生活には困らなかった。
だが、それでも曾祖母が興し、戦後繁盛しはじめた家の事業を継いで、その上教職に就いていた伯父の援助無しには生きていけなかっただろう。
今ならニートと非難される生き方だ。病気など理由にならない。
日常生活には支障がなかったからだ。

独身で子供がいなかった伯母は甥や姪を可愛がっていた。特に仲が良かった私の父親の子供だった私たちは可愛がってくれた。
伯母には父に負い目があったという。
結核になった時期が、父親の高校卒業間際で、進路を決める頃だった。
当時、家の商売がうまく行っていない頃だったらしい。だが、祖母は何とかお金を工面して、父を大学に進学させようとしていたという。
父は数学が壊滅的にできなかった。だから、国立は無理だった。
中央大学関西大学へ行って弁護士になりたかったらしく、合格できそうだった。
そこへ伯母の病気が重なってしまった。
当時はまだ国民健康保険も完備していない。
結核の治療費と父の進学費用と同じ位かかるという。
伯母は、男の子は学歴が必要だから大学に行けと言った。
正直、祖母も迷っていたらしい。
父親は、進学をあきらめて就職した。お金はお姉ちゃんの治療費に使えと。

だが父親は伯母も祖母も恨んではいなかった。家が貧乏だったからなあ。大学には行けんかったがまあええわ、と言っている。
そんな父親が伯母には自慢の弟だったのだ。私たちを子供のように可愛がってくれた。
独身の小姑など鬱陶しい存在なのに、兄弟のお嫁さんたちともうまくやっていた。

だがしかし、
祖母が亡くなり、兄だった伯父が年老いてきた頃、伯母は実家を出た。
祖母が亡くなってからは、同居していた伯父夫婦の当たりがきつくなってきて、よく父親に辛い辛いと訴えるようになった。
父親と伯父の息子である甥の助けを借りて伯母は家を出た。70過ぎての独立はきつかったに違いない。
幸い遠縁の人が施設長を務める老人ホームに入所でき、数年経ってそこで亡くなった。
父が喪主でお葬式をした。
父が自分の実家のお墓に入れようとすると、「うちで葬式しなかったからダメだ」と寺から断られた。
何て寺だ。
怒った父は総本山の永平寺にその寺のことをチクり、お骨を自分たちのために建てたお墓に入れた。公営墓地なので誰を入れてもよい。供養は本家で伯母の実家の伯父家族ではなく、父がすることになった。

優しい伯母だった。
亡くなる前に私の子供に会わせることができたのはよかったことだと思う。
可愛い可愛いと喜んでくれた。

伯母は信心深い人だった。
どういうわけか、年老いてからは新興宗教の信者だった。そのことで誤解を受けた。
家族葬だったのに、何故か伯父の家族にはその宗教が葬式を執り行ったということになっていて、それが原因でお墓に入れてもらえなかった。
父親がその宗教団体には亡くなったからもう会費を払えないと連絡したら、弔電が来ただけだ。供養に関して永平寺に相談して戒名を貰ったと説明しても無駄だった。
本来の跡継ぎではなく、三男の弟が勝手に葬式をしたという面子潰しもあったのかもしれない。


父親は若い頃なぜか小さな焼き物のマリア像を持っていた。
誤って足の部分を割ってしまい、足だけ粘土で固めている変なマリア像だ。
どういうわけか、今私の家にある。

あとで聞いたら、それは伯母のものだった。伯母の形見だ。

人が亡くなりもう会えないと言う事実は、この伯母によって私はやっと理解できたと思う。

最期は少し過酷ではあったが、職も夫も子供をもたずとも、人柄で人生を乗り切った人だ。
そのお陰で死後も無縁仏にならなかったのだ。
最強のサバイバーである。
人とのつながりはやはり大事なのかもしれない。伯母から学ぶことは沢山あると思うのだ。