babasky's blog

ばばあの空

こんな私が尊敬できる人

私は親のことが尊敬できない。
別に毒親だったわけではない。普通の親だ。真面目に働き、今でも自立して生活している、どちらかというと立派な親だと思う。
こんな馬鹿な子供にもお金をかけて一人前に育ててくれたわけだ。
感謝はしている。それは素直にいえる。
だけど尊敬となると別。
一緒に暮らしてるとアラが見えてくるし、結構馬鹿な親だったりする。


私は「尊敬する人」なんて嘘っぱちだと思っていた。
「他人は尊敬しなければならない」というのもわかっている。だけど、人というのは良いところもあれば情けなくダメなところもある、それが人間じゃないか?と昔のフォークソングみたいに考えていた。


15年ほど前、あまり知らない人が転勤してきて、上司になった。
畑違いの部署の人だ。
だいたいにおいて、畑違いから50過ぎてやってくる人なんてのは困った人が多い。
あとで知るのだが、恐らく、彼の当時の上司に嫉妬されて追い出されてしまったようだ。

だがしかし、
彼は素晴らしい人だった。
頭がよすぎる。
馬鹿な私にも何でもわかるように話してくれる。
決して怒鳴らない。若い人に怒ることはあっても、的を得た怒り方だ。
そして、どんな人の心にもすっと入っていくのだ。
常に前向き。
この人に欠点はあるのか?と思うくらいだ。
ごくたまに冷たい時もあるが、そんなの気にならない。

どうしてこんな人がこんなところに居るのだろうと思う位だが、それは生まれ育ちにある。
私の親と同年代の超ど田舎に育った人は、高卒後の進路が、「国立大学か、就職か」しか選択がなかった。
私の舅は国立大学を出て実の父親は就職をした。その上司も就職組だ。
戦後の貧しい農村の次男三男は皆そうだったのだ。国立大学でも、地元の国立か、東大京大しか行けなかった。頭がよくても、手に職をと、工業高校や商業高校へ行く人も沢山いた。

もし、その上司が都会の裕福な家に生まれ育っていたら、私の隣には居ないだろう。どこかで医者か、研究者になっていて、私とは縁のないところで仕事をしていたのかもしれない。

特に信心はないが、この人は神様が私に遣わした人なのかもしれない。
恋愛以外で「あの人が居るから会社へ行こう」と思ったのはその人だけだ。
ちなみに、私の考える神様像というのは実にいい加減なものである。これはまた別の機会に。

ただ、どんなに素晴らしい出会いでも別れはある。
今年一杯で引退なさるらしい。
私は情に流されて泣かない人間で、泣く時は怒っての悔し涙だけだ。寂しいとか、感激してとかで泣いたことはない。自分の結婚式でも泣かなかった。
恐らく親が死んでも旦那が死んでも泣かないだろう。
子供に先立たれたら泣くかもしれない。でもそれさえも自信がない。運命だったと諦めるかもしれない。


そんな私が彼の退職で泣くかもしれない。親を尊敬できず、死んでも泣かないであろう私がだ。
どうしよう。

いつだったか、誰だったかわからない。だが私がうんと若い頃まだ子供だった頃かもしれないが、
「将来、社会に出たら、あまりにもつまらない人間ばかりで失望するかもしれない。でも、人生で尊敬できる人なんて一人出会えればラッキーなんだよ」
と。

あと、
「なりたい自分というのは、異性でこの人は素晴らしいと思える人をお手本にしなさい」これは有名な作家さんがおっしゃってたかな。

私はとてもラッキーな人間だったかもしれない。
ひとつ残念だったのはダメ部下だったことだ。彼は部下にぞんざいな態度をとらないし、部下に無理難題も言わないがお酒が入るとちょっとだけ本音が出る。
その時に私がダメ認定されていることを知った。
当然だ。
ダメどころか不良だ。
でも良い。
「ダメだったな、ジャングルさんは」
ダメな記憶でも彼の中に残ってくれたらそれでも光栄である。